[1] アッ=タバリー*によれば、彼らには聴覚も視覚もあった。しかし不信仰への傾倒(けいとう)ゆえに、クルアーン*を聴いても利益を得ず、それを慧眼(けいがん)によって理解することもなかった(6:4317参照)。アーヤ*24、雌牛章7、家畜章50、雷鳴章16、巡礼*章46とその訳注も参照。
[1] 「謹んで従う(アフバタ)」の原義は、「平である」「安定する」といった意味。つまりアッラー*への恭順さと安心、あるいは悔悟が定着し、継続している状態のこと(アル=クルトゥビー9:21参照)。
[1] 慧眼(けいがん)で真理をとらえることも、それに従うこともなく、またそこへと招く者の言うことを聞いて導かれることもない不信仰者*が「盲人」「聾」に譬(たと)えられ、信仰の根拠を認め、そこへと招く者の言うことを聞いて、それを受け入れる信仰者が「見える者」「聞こえる者」に譬えられている(ムヤッサル224頁参照)。アーヤ*20とその訳注も参照。
[1] 「短絡的に」と訳した語は、「見せかけだけ」という解釈も可能(アル=クルトゥビー9:24参照)。
[1] この「明証」は、彼がアッラー*から伝えることの正しさを証明するもの(ムヤッサル224頁参照)。 [2] この「ご慈悲」は、導き、預言者*性、英知などと解釈される(アッ=タバリー6:4332参照)。