ශුද්ධවූ අල් කුර්ආන් අර්ථ කථනය - ජපන් පරිවර්තනය - සඊද් සාතූ

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97 : 17

وَمَن يَهۡدِ ٱللَّهُ فَهُوَ ٱلۡمُهۡتَدِۖ وَمَن يُضۡلِلۡ فَلَن تَجِدَ لَهُمۡ أَوۡلِيَآءَ مِن دُونِهِۦۖ وَنَحۡشُرُهُمۡ يَوۡمَ ٱلۡقِيَٰمَةِ عَلَىٰ وُجُوهِهِمۡ عُمۡيٗا وَبُكۡمٗا وَصُمّٗاۖ مَّأۡوَىٰهُمۡ جَهَنَّمُۖ كُلَّمَا خَبَتۡ زِدۡنَٰهُمۡ سَعِيرٗا

誰であろうと、アッラー*がお導きになる者こそは、(真実へと)導かれた者。そして、かれが迷わされる者が誰であろうと、あなたは彼らに対し、かれ(アッラー*)以外のいかなる庇護者も見出すまい。われら*は復活の日*、彼らを顔を下にした逆様の状態にし[1]、盲目で、唖で、聾の状態のまま召集する[2]。彼らの住処は地獄。それ(地獄の炎)が収まるたび、われら*は彼らに烈火を上乗せする[3]のだ。 info

[1] 預言者*は仰(おっしゃ)った。「一体、彼(人)を現世において両足である枷られたお方が、復活の日*、彼を顔で歩かせられることが出来ないなどということがあろうか?(いや、お出来になるのである。)」(アル=ブハーリー4760参照)。 [2] 洞窟章53、識別章12-13などにもあるように、クルアーン*の複数の個所で、復活の日*に不信仰者*が見、聞き、話す描写が登場する。これについては、「彼らが喜ぶようなものを見たり、根拠のあることを話したり、うれしいことを耳にしたりすることがない」「これは召集される時の、一時的な状態である」などといった解釈がある(アッ=タバリー7:5263参照)。 [3] これは婦人章56にあるような光景のことを指している、とも言われる(アル=バガウィー3:164参照)。

التفاسير: