[1] つまり「私たちのことを聞け、でも私たちはあなたのことを聞かない」、あるいは「聞いてください」と口では言いつつ、心の中では「聞くな」と言っていた(アル=バガウィー1:641参照)。 [2] 雌牛章104とその訳注を参照。 [3] 雌牛章104と、その訳注を参照。 [4] 「アッラー*の呪い」については、雌牛章88の訳注参照。
[1] 「土曜日の人々」に関しての詳細は、雌牛章65、高壁章163-166とその訳注も参照。 [2] ここでの「彼ら」とは、一説には「顔を消され、後ろ向きにされた者たち」のこと。あるいは「イルティファート(転換)」と呼ばれる、アラビア語独特の修辞法によって、人称が二人称から三人称に変換しているのだ、とも言われる。つまりこのアーヤ*で啓典の民*は、イスラーム*の信仰へと招かれているが、信仰を拒否した場合の結果としての懲罰を、あえて彼らに直接結び付けて描写しないことで、その誘いをより効果的なものにしているのだという(アブー・ハイヤーン3:267-268参照)。
[1] この主張が何かについては「雌牛章111、食卓章18にあるような言葉」「自分たちは子供のように罪がないということ」「ご先祖様が執り成してくれること」「お互いへの称賛」といった諸説がある(アッ=シャウカーニー1:762参照)。 [2] 原語では「ファティール」。ナツメヤシの実の種に付着した、細い糸状の物質。または、手や指をこすり合わせた時に出る手垢のこと。いずれにせよ、非常に微々(びび)たる物のたとえ(アッ=タバリー3:2269‐2270参照)。
[1] アッ=タバリー*によれば「ジブト」と「ターグート*」とは、アッラー*を差しおいて崇拝*されたり、従われたりする全ての対象のことである。その意味では偶像もシャイターン*も、魔術師も巫女(みこ)も、あるいはアッラー*とその使徒*に対する不信仰と敵対行為において指導的役割を担っていた者たちも、全てこの中に含まれることになる(3:2371-2374参照)。