[1] 復活の日*の「清算」が近いという意味についての解釈に、次のようなものがある。①預言者*ムハンマド*は最後の使徒*・預言者*であり、その共同体は最後のイスラーム*共同体である。つまり、それ以前のイスラーム*共同体と比較すると、より復活の日*に近い。②ここでの「清算」は、死のこと。というのも死んでしまった者は、復活の日*が起こってしまったも同然であるため。蜜蜂章1の訳注も参照(アッ=サァディー518頁参照)。
[1] 彼らの心は現世的願望にかまけ、その体は娯楽に耽(ふけ)り 、欲望の追求、無意味な物事、俗悪な言葉に勤(いそ)しんでいえう。しかし本来、心はアッラー*のご命令に従い、かれの御言葉に傾聴(けいちょう)するとともに、その意味を熟考(じゅっこう)し、来世を念頭に置きつつ、身体は創造主への崇拝*にこそ勤(いそ)しむべきなのである(前掲書、同頁参照)。 [2] 家畜章8-9などにもあるように、彼らは使徒が彼らと同様の人間ではなく、天使*であるべきだと主張したりもした(アル=バガウィー3:283参照)。 [3] この「魔術」とは、マッカ*の不信仰者*らがクルアーン*を揶揄(やゆ)して言ったもの(ムヤッサル322頁参照) 。彼らは、人間の手による奇跡を魔術の一種としていた(アブー・アッ=スウード6:54参照)。
[1] この「御徴」とは、サーリフ*の雌ラクダ、ムーサー*やイーサー*の奇跡のような奇跡のこと(イブン・カスィール5:332参照)。
[1] 啓典の民*どころか、マッカ*の不信仰者*たちでさえ、その預言者*性を信じていたイブラーヒーム*もまた、人間の男性であった。つまり、人間だからという理由で預言者*ムハンマドを否定するという彼らの論理は、彼らの真上にさえも矛盾していた(アッ=サァディー519頁参照)。 [2] この「教訓の民」とは、過去の啓典についての知識がある者たちのこと(ムヤッサル322頁参照) 。尚、このアーヤ*を、「宗教に関する知らないことは、無知な者ではなく、知識を有する者に尋ねよ」と、より一般的な形で理解することも可能である(アッ=サァディー519頁参照)。